慎重さの求め

今回が「最も重要な世紀」シリーズの最後の記事である。このシリーズでは、次の数十年間で次のようなことが起こる確率が高いaと論じてきた。
過小評価されている問題に注意を惹こうとする場合、読者にできる具体的かつ手応えのある支援を呼びかけて、「行動喚起(call to action)」で締めくくるのが一般的である。
しかしこれには難点がある。というのも、以前に私が論じたように、どんな行動が役に立ち、どんな行動が有害なのかについては、未解決の問題が多々あるからだ。(現時点ではほぼ間違いなく役立つように思われる行動をいくつか特定することができるとはいえ。)
ここから、少し変な状況が生まれてくる。「最も重要な世紀」仮説を真正面から受けとめるときの私の態度は、「興奮と運動」や「恐れと逃避」というよくある態度と一致しない。むしろ私は、奮然、切迫、混乱、躊躇いが奇妙に混じり合った感情を抱いている。予想以上の大きさの問題を目の前にして、自分には務まらないし、次に何をしたらいいのか皆目見当がつかないと私は感じている。この気分を他人と共有するのは難しいが、それでもそうしようと挑戦してはいる。
| シチュエーション |
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| 適切な反応(個人的な意見) |
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| 「この会社は時価総額1,000億円の会社になるかもしれない!」 | 「よっしゃ、いっちょやってやるか!」 |
| 「今世紀が一番重要な世紀になるかもしれない!」 | 「なんと…言葉が出ない、吐き気がしてきた…一度座って落ち着いて考えなければ」 |
というわけで、行動を喚起する代わりに、慎重さを求めたい。この記事の議論に納得したなら、性急に「とにかく何かをする」ことをして、すぐ次の話題に移る、みたいなことはやめてほしい。そうではなくて、何であれ今の自分にできるほぼ間違いなく善い行動を取るか、もしくは、時機がきたときに重要な行動をとれるように、より良い位置に身を置いて欲しい。
いま言ったことは、以下のことを含意するかもしれない。
請願書に署名したり、寄付したりするほど、腑に落ちるような満足をもたらすわけではないかもしれないが、今すぐできて真に役立つことを紹介しよう。
昼間の仕事では、私 ── あるいは私の同僚 ── が、ある特定の種類の人物を(助成金の受取に伴い開設したポストを埋めるためだったり、あるトピックについての専門家を仲間に加えたり、あるいはその他の理由で)探す場面が多々ある。特殊なスキルや関心、専門性等々をもつ人びとが、最も重要な世紀に、最も善いことをなすのに貢献するような行動を取るための機会が今後、ますます増えてくると私は予想している。そして、最大の課題はただただ、世の中にはどんな人がいるのか ── 誰がこの課題に関心をもち、貢献したいと望んでいるのか、彼らはどんなスキルと関心をもつのか ── を知ることになるだろうと私は考える。
もしあなたが、私たちが将来、見つけ出したいと望むかもしれない人物だとしたら、この簡単なフォームからあなたの情報を送ってくれると今すぐにでも助けになる。あなたの情報を売却したり、その他の仕方で金銭的な利益を生みだすために利用しないこと、あなたが選んだコミュニケーション方法(先ほどのフォームで詳細に尋ねている)が尊重されること、どのコミュニケーション・チャンネルからも、いつでも脱退できることを保証する。
「既定路線は破綻する」で私はこの世界が、滑走路を爆走する飛行機に搭乗しながら、なぜこんなに速く動いているのか、次に何が起こるかを知らない人間たちと類比的だと述べた。

乗客の一人として、今起こっていることが何なのか、また、どんな未来に備えて計画を立てなければならないのかを私は理解したのだと、あなたに言って聞かせることができたら喜んでそうしただろう。しかし自分にはまだ、それを理解することができていないのだ。
答えをもっているわけではないが、少なくとも私が確かに目撃していることを、共有しようとはしてきた。
私にはわからないことが沢山ある。しかし、もし今世紀が最も重要な世紀であるなら、我々は文明として、この世紀が差し出す課題に対処できる用意はまだない、ということには確信を抱いている。
もしこの状況が変わるものだとしたら、この状況をあるがままに見て、この状況を真剣に受け取り、できるときには行動をとる ── そしてできないときには、慎重さを保つ ── そういう人びとを今より増やすことから始めなければならない。
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